「青い目の人形」とは、昭和2年に、アメリカ合衆国から日本の小学校などに贈られた人形のことをいいます。当時は「日米親善の象徴」だった人形が、太平洋戦争のころには「敵国の人形」として、かなりの数が処分されてしまいました。約12,000体が贈られたのに、現存数は300体にも満たない数です。
「厄除け牛」や「幸運の牛」と呼ばれており、魔除けや疫病除けの縁起物として会津の人々に親しまれてきた。東北地方の会津の方言では「牛」のことを「べこ」と言い(べーは牛の鳴き声、こは愛称のこと)といい、アイヌの言葉では「ぺこ」と呼びます。 赤く彩られた牛の玩具であることから「赤べこ」と呼ばれているようです。柳津町が「赤べこ発祥の地」となったのには、「赤べこ伝説」とは…?
'アンガマ' 怖ろしいお面をつけて集団で押しかける「あの世からの使者」の正体とは⁉
旧暦7月13日旧盆の日から3日間行われる石垣市のアンガマ踊りになくてはならないのがアンガマの面。翁(ウシュマイ)、媼(ンミ)は多数の男たちを引き連れて各家々に招きを受けて訪問先の神前に対して…
不思議な力を持つ狐 経蔵坊(けいぞうぼう)
因幡国のお殿様の池田候は不思議な力を持つ経蔵坊と言う狐を飼っていた。 ケモノとはいえ人間の言うことは何でも判り、その上足が早くて、人間であれば数十日もかかるところを、経蔵坊はたった三日で往復することが出来た。それは飛脚の仕事にはうってつけなので、お殿様は大へん重宝され…
蘇民将来とは、各地に伝わる説話や伝承に登場する人物名です。 その説話や伝承が基礎となって、蘇民将来は災厄を払い、疫病(えきびょう)を防ぐ神として今も広く信仰されています。 日本三大祭りの京都・祇園祭での7月31日の祭りの締めくくりに…
牛鬼(うしおに)とは、古くは「名おそろしきもの」として枕草子にも登場した、頭が牛、体が鬼という残忍で恐ろしい妖怪です。牛鬼の伝承は西日本を中心に各地に残されていますが、宇和島の牛鬼伝説は特に有名です。かつて家畜を襲っていた牛鬼を山伏が退治し、バラバラにされた牛鬼から七日七晩出血し、その血は…
鷽は桜や梅の蕾を好んで食べるので害鳥視されることもあるが、菅原道真を祭神とする天満宮では、道真が海上遭難の際にこの鳥が先導して危難を救ったという故事、あるいは祭神が愛した梅の木に好んで寄ってくるというところから、天満宮にゆかりのある鳥としている。
十団子の始まりは、宇津ノ谷延命地蔵の縁起によるもの。
この谷に昔あった梅林院の住職が難病にかかり、小僧に膿血を吸わせたところから小僧が人肉の味を覚え、峠の旅人を食う鬼と化した。そこで諸人の難を救うため、野州(栃木県)宇都宮在の山奥にある素麺谷の地蔵菩薩(弘法大師作)が旅僧に姿を変じてこの鬼と対決…
普光寺に一匹の猫が住みつき、この猫が年をとって化け猫になった。この化け猫が、毘沙門堂の堂守(どうもり)を次々と食い殺すようになっていた…浦佐の按摩杢市(あんまさん)がお坊さんの肩をもみ始めたが、人間の骨格でないのに驚き、逃げだそうとすると「おれは裏山の化け猫だ。このこと人に話すと食い殺す」とあんまさんを脅した。あんまさんは村人に災難がかかってはと家人に知らせ、そのまま息絶えた。
一般に知られるあらすじでは、亀を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、龍宮(竜宮)で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、年老いた鶴、または人間の年寄りに化する。といが一般的に有名な昔話だと思いますが…本来は全く違う話だったという説もあるので一部ご紹介。
「えんぶり」は約800年以上伝えられてきたと言われる、その年の豊作を祈願するためのお祭り。この「えんぶり」が終わると八戸地方にも春がやって来ると言われています。毎年二月一七日から四日間行われる八戸地方特有の農村演芸で原始的色彩の濃厚なしかも極めて雅趣深いもので満田植を祈り豊作を予祝する行事である。
~親孝行により神に導かれた、里娘「おきん」の純愛物語~
熊本県の日奈久温泉は、応永十六年(一四〇九)武将浜田右近の子 六郎左ェ門が、父右近の刀傷をなおそうと安芸(広島)の厳島明神に願をかけ発見されました。浜田六郎左衛門が父親の刀傷を癒そうと神に祈ったところ、夢で…
江戸時代の四日市は、米蔵たくさんあって薄暗く、人通りが少なく夜になると化け狸が大入道に化けて人々をおびやかします。これを退治するために大入道の人形を作って狸と大きさを競い、化け狸が負けて姿を消したという伝説に基づいて山車が作られました。玩具は山車を模したものです。大入道は日本の妖怪伝説に登場する巨大な存在で、その名は「大きな僧侶」を意味し、恐ろしい存在として知られ、人々を脅かすことが多いです。
おたふく(=おかめ)は、芸能の神様の一人である「アメノウズメ」が起源とされています。アメノウズメは日本最古の踊り子とされ、あのアマテラスが天岩戸に隠れてしまった時に滑稽な踊りや舞を披露し、アマテラスを外に誘い出した神様です。アメノウズメがユーモアたっぷりに神々を笑わせた姿と、狂言の世界での滑稽で憎めないキャラクターを演じる乙御前(=おかめ)には重なる部分があるかもしれません。
昔、あるところに、父と母と美しい娘がいた。この家には、立派な男の馬がいた。ある時、年頃になった娘が馬と夫婦になりたいと、言い出した。父は驚いた。父は怒って、馬を桑の木につるして鉈や鎌で馬の皮を剥ぎはじめた。娘はそれを見て泣き続けて詫びた。ところが、皮を剥ぎ終わるころ、馬の皮が飛んできて娘を抱きかかえたまま…
「からす扇・からす団扇」の起源は、五穀豊穣・悪疫防除の意味からで、その扇や団扇で扇ぐと害虫は駆除され病気は平癒する、という深い信仰があるからである。そのいわれは今から約1200年前、大同2年(807年)に「古語拾遺」の神話から出ています。
よく言われている河童の姿は、小さく全身が緑色、亀の甲羅のようなものを背負っていて、頭には水が張られた丸い皿があります。皿が乾いたり割れてしまうと、力が出なくなるとされています。相撲好きで、人間につかまえられて、こらしめられている姿も描かれています。また、お礼の代わりに田植えを手伝ったり毎日魚を届ける姿も、数多く伝承されています。
木彫りの熊は北海道のお土産として見られることが多く、アイヌの伝統工芸というイメージを持たれる方もいると思いますが実は違います。アイヌ文化では「精巧に象られたものは魂を持って悪さをする」という考えがあり、動植物や人物を木彫りはもちろん絵画として描くこともなかったのです。
旧暦7月1日~7日まで行われる七夕の眠流し行事。現在は8月3日~7日に行われる同市の「ねぶた祭り」にちなんだもの延歴年間(782~806)坂上田村麿が蝦夷征伐の際、船にねぶたを仕立て、それに兵士を隠して賊を退治した伝説に由来する。民俗学的には、ねぶたは睡魔の意味で勤労仕事の妨げをする眠気を払う習俗が風流化したものとされている。
昔話に登場する誰もが知る「金太郎」金太郎は、源頼光の四天王として活躍した坂田金時(さかたのきんとき)がモデルとされている。足柄山で生まれ育った元気な子供で、熊と相撲を取っても負けない、強くて逞しい男子。
こけしは江戸時代の後期、東北地方の温泉地で誕生したとされる。
発祥地は宮城県蔵王連峰にある遠刈田(とおがった)が有力とされ、そこから広まったと言われています。福島県の土湯(つちゆ)、宮城県の鳴子(なるこ)と「こけしの三大発祥地」と呼ばれています。
魔除けや縁起物としての側面もありますが、実はこのような説もあるのです…
「金毘羅人形」「びっくり泥子」「目返りでこ」「獄門人形」といろんな呼び名がある。寛文10年(1670)金毘羅宮の社人 松太夫、権太夫が主筋の金光院を相手取って神楽銭にからむ紛争を起こしたが、敗訴して斬首の刑を受けた。その松太夫(白い顔)、権太夫(赤い顔)の獄門首の面影を写したものという
鎌倉期の仏教説話集に『撰集抄(せんじゅうしょう)』がある。
芭蕉も愛読した『撰集抄』は、古くは漂泊の歌人・西行の作と信じられていた。
説話のひとつ「西行於高野奥造人事」は、死者の骨から人造人間を造ったというゾクッとするお話。
戦国最強の武将とも称される槍の名手、可児才蔵!
美濃国可児郡(現在の岐阜県)出身。関ヶ原の合戦に出て、敵の首を十七も召しとり、それを笹に通して背負って戦場を駆け回ったといわれる荒武者であった。戦場で首を取ると目印に笹をくわえさせたことから、“笹の才蔵”と異名をとるようになった。 相手が誰であろうと媚びへつらうことなく、心のままに生きた。
赤ちゃんの疳の虫がおきた時、その虫をざるですくってしまう「虫封じ」のまじないと、ざるで水をすくっても通ってしまうので、鼻づまりがなおるようにと願いを込めて寝ている子供の真上につるしておくと治ると言い伝えれています。
さるぼぼが有名になる前は、「呪いの人形」と呼ばれていたことも…
今では想像できませんが、顔が描かれておらず全身が赤い色だから怖いと観光客に疎遠されていたこともあるようです。そんな「さるぼぼ」の正体とは?
個の狐は大変利口で、明治の初期、三河の山道を通行した人々を、様々な人間の姿に変じて送り迎えをしたと言う。時には別嬪になったり又は旅僧に変じたりして通行人をからかったそうである。当時私の叔父も仕事の帰りには何時も遅くなるので途中木の根に腰おろして一服していると丈の高い坊さんが自分の前を通り去っていくので「もしもし」と声をかけたが無言であった。
三猿の彫刻は東照宮の神馬をつなぐ厩舎に彫られており、人間の人生を象徴するように8体のサルが彫られている。「見ざる、言わざる、聞かざる」という日本語のリズム感から、三猿は日本生まれのものと考えられがちですが、三猿というモチーフそのものは古代エジプト、アンコールワットなどでも見られると言われています。 シルクロードを経由して日本に伝わったという説 もあります。
鍾馗(しょうき)様が祀られるようになった理由に、次のような伝説があります。
唐の時代に終南山という地に住んでいた青年鍾馗が、高級官吏になるため科挙(試験)を受けました。鍾馗は1番で合格して「状元」の称号を受けたのですが、大きな体とひげ面で人相が悪かったため…
「あんたがたどこさ」とは、熊本県熊本市船場地区を舞台としたわらべ歌です。正式な曲名は「肥後手まり唄」といいます。女の子がボールなどをつきながら歌う、手毬てまり歌うたのひとつです。子供のころ「あんたがったどっこさ」と歌いながらボールをついたことはある方も多いでしょう。しかし、その歌詞には、恐るべき裏話が潜んでいるのです。
蘇民将来とは、各地に伝わる説話や伝承に登場する人物名です。 その説話や伝承が基礎となって、蘇民将来は災厄を払い、疫病(えきびょう)を防ぐ神として今も広く信仰されています。 日本三大祭りの京都・祇園祭での7月31日の祭りの締めくくりに…
凧揚げ、子供自身にとっても願いごとを凧に 乗せて「天まで届ける」という意味もあったそうです。古くから中国では、占いや戦争などに凧が使われていたそうです。10~12世紀の頃、盗賊による被害を受けていた村が、占いに従って、全ての住民が凧を揚げたところ、その村だけは盗賊がやって来なかった・・・という言い伝えがあるそうです。
占いにも利用された凧揚げですが、現代ではスピリチュアルな夢占いもあります。
菅原道真の姿をかたどったもので、全国各地でその人形が作られています。天神信仰と重ねられた道真は名筆家かつ学者であったことから、習字・学問の神として信仰されており、子どもの学業が進むようにと天神さまを家庭でも飾るところもあったそうです。また、天神さまは農耕神としても広く信仰を集めていたため、稲穂を盛った稲穂持天神や黒牛に乗った牛乗り天神も作られ、農作物の豊作を祈ったといわれています。
道祖神信仰と結びついた天狗は、人の力の及ばない力を持つと信じられ、悪魔を追い払う霊威を持つとされていた。天狗は、中国では凶事を知らせる使者。天の狗(いぬ)と書くことからも、元々は「使者」を意味している。中国から日本に伝来し意味が変化していきました。日本では古くから、山には神が住んでいると考えられていたが、流星や隕石などの現象は山の天狗の仕業だと考えられるように…
虎は力強い印象から、たくましく健康である象徴とされ、様々な病魔を追い払い無病息災をもたらすといわれています。また、戦いをつかさどる「武神」としてその名が知られる「毘沙門天」と結びつく虎は厄除けの力を持っていると考えられています。
栃木県の郷土玩具で、しゃもじを利用して作った平たいなまずです。もともと子どもの無病息災を祈るものでしたが、近年では地震といった災難除けのお守りとしても見られているそうです。その由来は、かつて日照りがあった際に、干上がった1匹の鯰をある百姓が助けて川に放してあげました。その後、大雨によって氾濫した川に百姓の子どもが流されてしまった時、数十匹の鯰が子供を岸まで押しやり、助けてくれたという民話からきているそうです。
普光寺に一匹の猫が住みつき、この猫が年をとって化け猫になった。この化け猫が、毘沙門堂の堂守(どうもり)を次々と食い殺すようになっていた…浦佐の按摩杢市(あんまさん)がお坊さんの肩をもみ始めたが、人間の骨格でないのに驚き、逃げだそうとすると「おれは裏山の化け猫だ。このこと人に話すと食い殺す」とあんまさんを脅した。あんまさんは村人に災難がかかってはと家人に知らせ、そのまま息絶えた。
「網走監獄」は、人びとにとっては日本中の凶悪な犯罪者の吹きだまりとしてまた犯罪者にとっては最も厳重な地の果ての牢獄として恐れられてきた。網走監獄が日本一脱獄が難しい刑務所と言われています。そこで生産されるアイヌの郷土玩具とは?
彦一コマ彦一頓智小話に起縁する「彦一コマ」肥後八代の産頓智者彦一については沢山の小話があるが人をダマス狸も彦一に逢うては手も足も出ず遂に彦一の家来となって従順したという……この有名な小話を作品化したものである。 「彦一コマ」の光栄皇后陛下初め皇太子並に妃殿下高松宮殿下三笠宮殿下の御買上の光栄を蒙り県主催郷土展(昭和二十七年)に於て最高の知事賞を受く。彦一頓智小話の一つ彦一がある朝…
「便所の神様」と言えば、植村花菜さんが歌う『トイレの神様』がヒットし話題になりました。小さい頃おばあちゃんと暮らしていたときの思い出や、おばあちゃんの死が歌われています。その中に、トイレ掃除が苦手な幼い頃の植村さんにおばあちゃんが言った歌詞があります。それは…
昔、さぬき生駒の殿様時代(1587年-1640年)の話。
殿様のお姫さまのおそば仕えに上がっているおマキという童女がいました。
ある時お姫さまが重い病にかかり、いろいろ手の限りを尽したが、どうしても直りませんでした。そこでおマキが…
縁起物として幅広い世代から親しまれる招き猫。発祥の地といわれているのが、東京都世田谷区にある豪徳寺(ごうとくじ)。鎌倉時代に道元が日本に伝えた曹洞宗のお寺。江戸時代には井伊家の菩提寺となり、井伊直弼のお墓も置かれています。
二つに割った饅頭を持った男児の人形です。これは、父と母とどちらが好きかと問われた子供が、饅頭を二つに割って「どちらがおいしいか」と反問したという教訓話が由来とされています。両手に半分ずつ持って、大人のその質問の愚かさを笑っているようにも見えます。この人形を部屋に飾ると賢くなると信じられ、また賢い子供が産まれるように願を掛けることもありました。
京の都に、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という強い武人がいた。田村麻呂は、朝廷の命令を受けて、征夷大将軍となって、蝦夷を征伐することになった。田村麻呂は、たくさんの家来を引き連れて出発する際、お寺のお坊さんがやってきて、「この箱の中には、私が心をこめて彫ったものが入っています。何かの役に立つこともあるでしょうから、どうぞお持ちになってください」と箱を渡され…