テーマ選びに悩まれている方向けに、オススメの題材をご用意しました。
伝承や郷土玩具の由来を参考にしながら、現代の文化や社会課題に照らし合わせた、オリジナルの物語を創造してみてください!あなたならではの自由な発想で紡がれる、魅力あふれる物語をお待ちしております。

井伊直孝が鷹狩りの帰りに寺の前を通りかかると、和尚の飼い猫が前足をあげて直孝を招くよ うな仕草をしました。不思議に思った直孝が猫に導かれるように寺へ入った直後、突然の雷雨になったのです。雷雨を避けることができた直孝は、この猫のおかげで難を逃れたと喜び、寺に多額の寄進をしました。
これにより豪徳寺は立派に再建され、福を招いた猫を「招福猫児(まねきねこ)」と呼び、お祀りする招福殿が建てられ、猫は「招き猫」として信仰されるようになったといわれています。

平安時代、征夷大将軍・坂上田村麻呂が大滝根山に住む鬼・大多鬼丸を討伐する際、京都・清水寺の僧・延鎮から100体の木彫りの駒を授かりました。戦が始まるも、田村麻呂の軍は長旅の疲れで苦戦。しかし突如100騎の駒が現れ、兵たちはそれに乗り戦い大多鬼丸を討ち取ることに成功しました。
戦後、100騎の駒は姿を消しましたが、村人が高柴村近くで汗をかいた1体の木駒を発見。知恵者の話から延鎮の木駒と知り、残りの99体を作り補いました。数年後には最初に見つかった延鎮の木駒は姿を消してしまったものの、99体を子どもに与えると健康に育ち、子どものいない家では木駒に大豆を供えると子宝にめぐまれると伝えられるようになりました。

河童(かっぱ)には人間の「尻子玉(しりこだま)」(お尻の奥にあるとされる魂のようなもの)を抜くという伝説があります。ある日、若者が川で泳いでいたところ、河童に尻子玉を抜かれてしまいました。その若者は力を失ってぼんやりとした状態になり、ついには亡くなってしまったのです。このお話には「川で遊ぶ時には注意えよ」という教訓が含まれており、昔から語り継がれています。
その他にも「河童と相撲、河童とキュウリ、カッパ淵」等、河童にまつわる伝承や民話は数多く存在します。地域ごとの伝承を調べると、また違った河童の性格や結末が見られるかもしれません。

いまから400年以上前の1611年に会津地方を襲った大地震。虚空蔵堂(こくぞうどう)をはじめお寺や民家が倒壊し柳津町も大きな被害を受けました。震災後の1617年に虚空蔵堂(本堂)は現在の岩の上に建てられましたが、再建のための大材を上まで運ぶのに大変困り果てていました。
仏のお導きか、どこからともなく力強そうな赤毛の牛の群れが現れ、大材運搬に苦労していた黒毛の牛を助け、本堂を建てることができたのです。一生懸命手伝った赤毛の牛は「赤べこ」と呼び、忍耐と力強さが伝わりさらには福を運ぶ「赤べこ」として多くの人に親しまれるようになりました。

昔、北の海からやってきた武塔神(ムトウノカミ)が旅の途中で宿を探していた時、裕福な弟の巨旦将来(コタンショウライ)は断り、貧しい兄の蘇民将来(ソミンショウライ)は心からもてなしました。武塔神が蘇民将来に子がいるかどうか尋ね、娘がいると答えると腰に茅の輪を付けさせるように言います。
その夜、武塔神は蘇民将来と娘たちの茅の輪を目印に、弟たちを滅ぼしました。そして武塔神はみずからを速須佐能雄神(ハヤスサノオカミ)と名乗り、茅の輪を付けていれば、疫病を避けることができるといったそうです。

越前の十楽村。夫に先立たれた嫁は、菩薩のために夜ごとのお参りをかかしませんでした。ところが姑はたいへん欲深く意地の悪い婆さんで、嫁の信心深いのが憎く何とか止めさせようとします。
ある日、姑は悪だくみを思い立ちます。先祖伝来の鬼面をかぶり、お参りの道を急ぐ嫁の前に立ちはだかったのです。嫁は恐ろしさに身の毛もよだつ思いでしたが、念仏を唱え見向きもしないで御坊へと急ぎます。姑は嫁の気迫になすすべもなく家に帰り、面を取ろうとしたのですが、面は顔から離れず身動きも取れなくなってしまい…
そのうちに嫁が帰ってきたので、事の終始を語りざんげしました。嫁の勧めで真心をもって念仏をとなえると、不思議にも面は顔から落ちたということです。

学問の神様として信仰された天神様(菅原道真)と、鷽(うそ)という鳥にまつわる伝説があります。道真が無実の罪で大宰府(現在の福岡県)に左遷された際、敵に襲われそうになったことがありました。そのとき、無数の鷽が飛来し、道真の姿を隠して守ったと言われています。これが「鷽は天神の使い」とされる由来です。
鷽替え神事という、毎年1月に行われる開運招福を祈願する行事があります。参拝者が神前に集まり、授かった鷽を「替えましょう、替えましょう」と声をかけ合いながら人の手から手へと渡して取り替えていく行事です。何度も何度も取り替えることによって、吉事に替えることができるといわれています。

奈良時代から伝わるとされる伝説によると、日本の地下には大きなナマズが住んでおり、そのナマズが暴れると地震が起こるとされています。茨城県の鹿島神社には「要石(かなめいし)」と呼ばれる石があり、これがナマズを押さえつけているため大きな地震が防がれていると信じられてきました。同様の伝承は千葉県の香取神宮にもあり、鹿島神社の要石とともに地震を抑える役割を果たしていると言われています。

二つに割った饅頭を持った男児の人形です。これは、父と母とどちらが好きかと問われた子供が、饅頭を二つに割って「どちらがおいしいか」と反問したという教訓話が由来とされています。両手に半分ずつ持って、大人のその質問の愚かさを笑っているようにも見えます。こ の人形を部屋に飾ると賢くなると信じられ、また賢い子供が産まれるように願を掛けることもありました。

赤ちゃんの疳の虫(かんしゃく)が起きた時、 その虫をザルですくってしまう「虫封じ」のまじないと、ザルで水をすくっても通してしまうので、鼻づまりが治るようにと 願いを込めて寝ている子どもの真上につるしておくと言い伝えられています。
また「犬」の頭に「竹」のザルをかぶせている姿が「笑」を表しているとされ、【ざるかぶり犬】は笑いで福を呼び込む笑門来福の縁起ものです。
~金石地蔵伝説~
宮島に住む夫婦が、年老いて子どもがいないのを愁い、子どもを授かるように仏様に祈り続けていたら、ある夜、夢の中に
『上川の竹林の辺りに光明が輝いているのを見て不思議に思い行ってみると、石の地蔵尊がありました。お地蔵様を一心に拝んでいると、菩薩様が一子授けるとおっしゃった。』
夢から覚めて、不思議なことに夫婦が同じ夢を見たことに驚き、竹林に行ってみたところ、石の地蔵尊がありました。
正夢だったので、菩薩様のお告げは間違いないと信心を重ね、一心にお祈りをいたしました。
すると、いつとなく身ごもり、男子を出産いたしました。
子は成長し、類い希なく大きな体になり、広島藩主お抱えの力士となりました。
夫婦は、深くこの地蔵尊に帰依[きえ]し、正徳5年(1715)に御堂を創建し地蔵尊を安置いたしました。信心する人々が絶えることなく、いつの頃からか、石仏が金像となり、金石地蔵尊と称するようになりました。
これが、上川徳寿寺ご本尊の金石地蔵伝説です。
(一般社団法人 宮島観光協会ホームページ引用)
~あまんじゃく~
五日市の海老山[かいろうやま]の麓に貧しい道空[どうくう]という名の漁師夫婦が住んでいたそうな。
厳島大明神を深く信仰し、毎日、漁で獲れた魚をお供えしていました。
ある時、漁に出ていると島の沖に蓬莱[ほうらい]が浮かび、海が黄金の砂になりました。
その砂を船に汲み入れて帰り、道空は長者になりました。
また、家の傍から温泉も湧き出すなど家運が高まり、長者になった夫婦は、厳島大明神の霊験と敬神の念がますます深くなり、その財を投げうって社殿の修復にあて、また海老山の麓に、嚴島神社の摂社として塩竃[しおがま]の神をお祀りしたお宮を建てました。
しかし、道空に悩みがありました。
一人息子の道裕[どうゆう]が、人の言うことを逆さに聴く性分で育ち、右と言えば左。海と言ったら山、上と言ったら下と言い、人は皆「あまんじゃく」と言っていました。
道空がいくら言い諭しても改めることがありませんでした。
道空は、自分の余命がないことを知ったとき、「あまんじゃく」の道裕を枕辺[まくらもと]に呼び寄せて、「私が死んだ後も塩竃明神の傍に墓を造ってもらい、死んだ後も明神に仕え、お世話をしたい。」と言いたいが、「あまんじゃく」が逆さに聞いたらどうしたものかと、心にも無く「あまんじゃく」に逆さの「津久根島に葬ってくれ。」と言い残して死にました。
道空の死後、さしもの「あまんじゃく」も親の屍[しかばね]に涙して、たった一つの孝行を尽くしたいと、遺言を守って、父の墓を津久根島という寂しい孤島に建てました。
「あまんじゃく」は生涯不幸の子でした。
伝説:三女神が芋つくねを投げたところ島になったので、津久根島と名付けられているという。
(一般社団法人 宮島観光協会ホームページ引用)
~弘法大師と豆~
山のふもとでね、百姓の女房が、家の前で豆を煮ていたんだね。そしたら、山から修験者が下りてきて、
「実は、この山で、飲まず食わずの行をしていたんじゃが、見ればおいしそうな匂いがする。その豆を一皿功徳してくれないか」
って、たのんだんだね。ところが、女房は豆をあげるのが惜しいんだね。
「せっかく来られたんだが、この豆は人間の食べるものじゃない。実は、これ馬が食べる豆なんじゃ。馬に喰わすために炊きよるんだから、あんたにゃあげられんよ」と、こう言うて、にべもなく断ったんだねぇ。すると修験者は、
「では、しかたがない」
と、とぼとぼ立ち去った。そこへその亭主が戻ってきて、
「ああ、野良仕事をしてお腹がすいた。おお、おいしそうな豆だ。食べさしてくれぇ」と言って、パクパクその豆を食べたんだね。
すると、その亭主は馬になっちゃったんだねぇ。女房がびっくりして、これは今の修験者の祟りだ。これだけの霊験をあらわすのは、あれは、弘法大師様だ、と女房が悟って、今からでも行ってお詫びして来う、追っかけよう、っていうんで、もう何もかも放ったらがしておいて走って行ったら、お腹の空いた弘法大師がボソボソと歩きよる。で、前へ回って、もう平身低頭して謝って、
「悪うございました」 ってお詫びしたらね、
「ああ悪いと思えばそれでいい。豆はあんたのもの。豆を欲しがったのはわしの方だから、それでいいんだよ」
と言って、スタスタとね、笑って何とも気にかけないで行こうとするのを、
「待ってください、お大師様。そのように大らかに許して下さるのならば、どうぞもう一度戻ってください。こんどは私が心ゆくばかりのおとき(お食事)を差し上げますから」と女房が引き止めたら、「そのようにしてくれるなら、わしもお腹が空いてるんだから・・・」
って言って、ついて帰って、それでまぁ丁重におとき(お食事)を揃えて差し上げてね、
「ああ満足した。おかげで満腹したから、このお礼に、亭主殿を馬にしてしもうたが悪かった。もとのとおり戻してあげよう」
っていうんでね、それでその馬の頭をこう手でなでながらね、何か呪文かお経を誦みはじめたんだそうですよ。
すると、だんだんその長い馬の顔が人間の顔に、もとの亭主の顔になるんだそうです。それから今度は、首の方をまたお経を誦みながらなでるとね、その長い馬の首も短くなって人間の首になって、それから肩も弘法大師がなでてお経を誦むと、自然に人間の肩になり、手になり、すっかり胸から腹から・・・・なでるほど人間のもとの亭主の姿に戻ってきて、おヘソの下くらいまでなでていったら、そうしたら女房が
「お大師様、待ってくだされ。そこから下はそのままでようございます」
広島民俗 第64号 話者 越智宗政 (一般社団法人 宮島観光協会ホームページ引用)