七福神は、仏教の「七難即滅(火難、水難など)、七福即生(律義、裕福、威光、愛嬌、大量、人望、寿命)」という考えに基づいています。「七つの難が滅び、七つの福が生じる」という意味で、この七福に対応した神々が選ばれたのです。ところが、この七柱の神々は、日本だけでなく、インド、中国など、様々な国から集められました。
800年頃、最澄がインドの神様である「大黒天」を比叡山の台所の神様として祀ることから始まりました。
その後、いつの間にか「恵比寿」もセットで信仰されるようになり、平安時代に「毘沙門天」が加わり「大黒天」「恵比寿」「毘沙門天」の三神として長らく信仰されていました。鎌倉初期になると「弁財天」が「毘沙門天」の代わりに信仰されることも増えてきました。室町時代になると、仏教の「布袋」、道教の「福禄寿」「寿老人」が加わりました。室町時代の終わりごろになると、それらをまとめて「七柱の神仏」として信仰されるようになりました。当初はメンバーが固定されておらず、現代で馴染みのある「恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天」の顔ぶれに定まったのは江戸時代になってからのようです。
七福神は、一般的には「恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天」の「7人」ですが、一神を加えて八福神という説もあるのです(「お多福」「吉祥天」「だるま」「宇賀神」など)
お多福・・お多福の起源は、鎌倉時代初期の大工の高次の妻、阿亀(おかめ)。これに女性を表わす舞の面(お多福)や、天之宇受売命のイメージが習合した。
吉祥天・・吉祥天は、インドのラクシュミー女神のことで、毘沙門天の妹または妃という。
だるま・・達磨は、5世紀頃の人で南インドの王子ともペルシア人ともいわれる高僧で、中国の南朝の宋に渡り極東の禅宗の開祖となった。
宇賀神・・宇賀神は人間の頭で首から下は蛇という神で、弁財天と習合した日本土着の神である。
様々な説がありますが、真の8人目として君臨するのは、一体どの神様なのでしょうか?
おまけ「宝船」
宝船はもともと「藁で作られた船に稲穂を飾った置物」でした。
それはやがて帆掛船に姿を変え、金銀をはじめ、七福神やその授かりものが賑やかに飾られるようになり、
「開運招福、富貴栄華(地位や身分が高くて財産もあり、華やかに繁栄していること)に通じる縁起物」とされ、江戸時代より普及し始めました。正月に見ると縁起がいいとされる「初夢」 縁起かつぎという意味では、室町時代のころから、七福神が乗った宝船の絵に、「永き世の遠の眠りのみな目覚め 波乗り船の音のよきかな」という回文を書き添えたものを枕の下に置くと、いい初夢が見られるとされていたそうです。
(引用、参考)https://www.manner-goshuin.com/knowledge-takarahune101/