菅原道真の姿をかたどったもので、全国各地でその人形が作られています。
天神信仰と重ねられた道真は名筆家かつ学者であったことから、習字・学問の神として信仰されており、子どもの学業が進むようにと天神さまを家庭でも飾るところもあったそうです。
また、天神さまは農耕神としても広く信仰を集めていたため、稲穂を盛った稲穂持天神や黒牛に乗った牛乗り天神も作られ、農作物の豊作を祈ったといわれています。
菅原道真公は怨霊として恐れられていたという説もあるようです。
「怨霊」から「神」として祀られるようになった崇徳天皇が有名ですが、菅原道真公=天神様も恐れられたため神として祀られた存在です。
都から九州の太宰府に流された菅原道真公の怨念はすさまじく、雷となって宮中に落ちたと伝えられている。
京都府には菅原道真公を祭神とする北野天満宮があるが、この北野天満宮は全国で4,000もの末社をもっている。それほど人々が恐れた存在だったのではないでしょうか。
菅原道真公が怨霊となるまで
48歳の時、讃岐守を経て蔵人頭に任命された。このとき菅原道真公の後ろ盾となったのは、藤原氏の専横に嫌気がさし、天皇親政を推し進めたいと考える宇多天皇だった。
しかし、菅原道真公は右大臣に昇進したのちに宇多天皇が退位すると、藤原氏が醍醐天皇にたいして菅原道真公を貶めるように動く。九州の太宰府に左遷されてしまい、2年間にわたって苦しい生活を送った菅原道真公は都に戻ることは叶わず悶死してしまう。
菅原道真公は、死後は天変地異を司る怨霊『天神』になり復讐をするのです。
醍醐天皇が恐れた天神様
菅原道真公没後、都では大雨と落雷が続いた。さらにその後、藤原菅根が雷雨の中で変死してしまう。そしてその翌年には左大臣藤原時平が、その4年後には右大臣源光も変死。菅原道真公の失脚にかかわった人物の相次ぐ変死に、菅原道真公を左遷を実行した醍醐天皇は大変に恐れて菅原道真公の怒りを鎮めようと僧侶に祈祷を行わせる。しかし、その後も藤原時平の娘と妹が生んだ親王はそれぞれ幼くして亡くなるなど、菅原道真公の怒りは一向におさまらず都の人々の間でも恐怖心が高まっていった。
さらに、京都・清涼殿に落雷があり、藤原清貫、平希世ら多数の公卿が焼死するという大惨事が起こり、あまりのショックと菅原道真公の怨霊に対する恐怖のあまり醍醐天皇も3ヶ月後に崩じてしまった。菅原道真公は荒ぶる神『天神』となり、都に災いをもたらす復讐の神となり、その力の前に朝廷には抑える術がなかった。
天慶5年(942年)右京七条に住む多治比文子という少女に託宣が下り、その5年後には近江国の神官の幼児にも同じように託宣が下ったことから天歴元年(947年)に北野の地に菅原道真公を祀る社殿が造営された。そして永延元年(987年)には一条天皇から「北野天満宮天神」という名前が送られ、人々から天神様と呼ばれるようになったのです。
さらに正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣という最高位の位も追贈された。こうしたことで長らく続いた菅原道真公の怨霊はようやくおさまりました。そして、江戸時代に入ってからは学問の神様として民衆から信仰を集めたのです。