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青い目の人形 背面.jpg
青い目の人形 正面.jpg
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「青い目の人形」とは、昭和2年に、アメリカ合衆国から日本の小学校などに贈られた人形のことをいいます。

当時は「日米親善の象徴」だった人形が、太平洋戦争のころには「敵国の人形」として、かなりの数が処分されてしまいました。約12,000体が贈られたのに、現存数は300体にも満たない数です。

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青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
日本の港に着いた時涙を一杯浮かべてた
私は言葉が分からない 迷子になったら何としょう
優しい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ
仲良く遊んでやっとくれ

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 野口雨情の名曲。1927年(昭和二年)にアメリカからお人形が贈られた話。

実際は「青い目のお人形の歌」の方が先にあって、その歌がきっかけの一つとなって「青い目のお人形」が贈られてきたのが真相のようです。

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 宣教師のギューリック博士は、1888年から25年に渡って日本で過ごした親日家です。その博士が心を痛めたのは移民制限、排日暴動などで日に日に悪化していく日米関係でした。「このままではいけない」と考えた博士の耳に一つの歌が聞こえてきました。

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この歌は日本国内で歌われただけではなくアメリカでも歌われました。

そのきっかけとなったのが二年後に起きた関東大震災です。世界中が救援のための募金を行いました。中でもアメリカからの金額が一番多かったのですが、募金を呼びかける際に歌われたのが「青い目のお人形」でした。

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 この曲を耳にしたのが日米友好のために奔走していたギューリック博士です。子供の頃から友好の心を持っていれば、大人になっても仲良くすることが出来ると考えていた博士は、この曲によりお人形を、それも「青い目をしたお人形」を贈ろうと考えました。

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 1927年(昭和二年)の雛祭りに間に合うようにと贈られてきた約13,000体にも及ぶ「青い目のお人形」の受け入れ窓口となったのが、一万円の新札にもなった渋沢栄一。受け入れのために東奔西走します。​

 

こうして大歓迎を受けたお人形は日本各地の学校に配られていったのです。​

ギューリック博士は返礼は不要だと断りましたが、日本人形を贈ろうということになりました。

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 その後の1941年12月8日、日本がハワイオワフ島の真珠湾に奇襲攻撃を行い、アメリカとの戦争が始まったのです。自宅でこの大ニュースを聞いた時、ギューリッタ博士は「何かの間違いだ」と言葉を失ったといいます。

 戦争中に日本では英語が敵性語だとして禁止されましたが、この影響が思いもかけないところに及びました。何と「青い目のお人形」までが「敵国のスパイだ」として焼かれたり、竹槍で突かれたりしたのです。

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 受難は人形だけでなく野口雨情にも及びました。

「青い日をしたお人形は」や「赤い靴履いてた女の子」の歌を歌うのは禁止されました。雨情は1944年、軽い脳溢血で倒れた後の病み上がりの身で妻と八人の子供とともに栃木県河内郡姿川村鶴田に疎開しました。

​​ 雨情は日に日に弱り、翌年63歳でひっそりとこの世を去りました。同じ1945年ギューリック博士もアイダホで85歳で亡くなったのですが、こちらはニューヨークタイムスに大きく掲載されました。

 もう一人の主役渋沢栄一は、1931年91歳という高齢でこの世を去りました。

他の二人と違って、その後のお人形の悲劇を知らなかったのは幸いだったと言えます。

 焼かれたり壊されたりしたと思われていた青い目のお人形ですが、自宅や倉庫などに隠した人も多くいました。おかげで今でも数多く残されています。皆様のお近くにもあると思います。しかし小学校に贈られたものですから、今でも保存しているのは多くが小学校です。そのため関係者以外の目に触れるのは稀になっているのが現状です。

 

​​1987年~1988年にギューリック3世(ギューリック博士の孫)により、「新青い目の人形」が青い目の人形の保存校などに贈られたようです。 これは、ギューリック3世が当時、青い目の人形が各地に大切に保存されていることに感動し、新たに亡きギューリック博士の平和への願いを継ぐ形で贈られたものである。

 

​(引用、参考)http://www.celluloidhouse.com/salon73.htm

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