「えんぶり」は約800年以上伝えられてきたと言われる、その年の豊作を祈願するためのお祭り。この「えんぶり」が終わると八戸地方にも春がやって来ると言われています。毎年二月一七日から四日間行われる八戸地方特有の農村演芸で原始的色彩の濃厚なしかも極めて雅趣深いもので満田植を祈り豊作を予祝する行事である。田植と豊作に因む濃彩な檜模様を描いた長烏帽子を冠り松や鶴などを染めた紺木綿の直衣を着右手に鍬柄左手に扇を持ち三人または五人一組の太夫が笛太鼓、掌(てびら)鉦(がね)を用いテンポの速い拍子で采配を振りながら満田植の喜びを唄うえんぶり唄でたくましい舞を舞うという他地方では見られない傳統久しい民族舞踊で地方最右の文化遺産の一つである。
起源は、鎌倉時代の始め南部氏の祖・南部光行(なんぶみつゆき)が奥州の地にやって来て初めて迎えた正月に、酒の勢いで抜刀乱舞となった家来達の騒ぎを、機転を利かせた藤九郎(とうくろう)という農民が賑やかに田植歌を歌いながら農具を手に持って踊ることで治めたことに始まると言われています。
えんぶりの歴史
かつて北東北の太平洋側は、幾度も冷害や凶作に見舞われ、その度に大飢饉に見舞われた八戸では、稲作への強い思いがありました。村落毎に「えんぶり組」が生まれ、最盛期には、100組以上あったとも言われています。
ところが明治9年、「えんぶり」がいかがわしい習慣であるとして「えんぶり禁止令」が出されてしまいます。
「南部地方の習慣にて、えんぶり踊りととなえ、鉦太鼓三絃等を以って囃たて、異形の姿にして横行し、或は人家に立ち入り、金銭米穀を貰い受けているとのこと、不届きである。これはご維新以降定められた太陽暦を守らず、なお旧来の陰暦により、斯る醜態を醸しおこることなれば、自今旧来のえんぶり踊りを厳禁せしむるものである。心得違いの者これなきよう、この旨を伝達致すものである」
正部家種康著『みちのく南部八百年 地の巻』より
「えんぶり」が禁止されると、郊外の農民達は冬の楽しみを失い、町も閑散として活気がなくなってしまいました。
そこで明治14(1881)年、八戸藩の侍だった大澤多門らは、長者山新羅神社の例祭として「豊年祭」という形で復活を遂げました。ただ復活後も、何度も中止に追い込まれました。「えんぶり」は豊作祈願の祭りですが、「豊作にして下さい」という祈りではなく、「豊作になった、めでたい」と前祝いする「予祝」なのが特徴。
太夫(たゆう)と呼ばれる舞手が、馬の頭を象った華やかな烏帽子をかぶり、頭を大きく振る独特の舞が特徴です。「えんぶり」の踊りは稲作の一連の動作、苗作り、田植え、草取り、稲刈りなどを経て、大地主の旦那様に米俵を納めるまでの一連の動作を表現したと言われています。
(引用)https://www.linderabell.com/entry/February/Festival/Enburi