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金毘羅でこ1.jpg
金毘羅でこ2 正面.jpg
金毘羅でこ2 背面.jpg

「金毘羅人形」「びっくり泥子」「目返りでこ」「獄門人形」といろんな呼び名がある。
寛文10年(1670)金毘羅宮の社人 松太夫、権太夫が主筋の金光院を相手取って神楽銭にからむ紛争を起こしたが、敗訴して斬首の刑を受けた。その松太夫(白い顔)、権太夫(赤い顔)の獄門首の面影を写したものという。​

王尾内記と権太夫の墓は香川県満濃町の旧金毘羅参詣道・高松街道沿いに残っています。
 慶長年間、王尾市良太夫は大井八幡宮と金毘三十番神の兼帯社人であった。
 その長男を松太夫といった。寛文10年(1670)8月松太夫の子内記と松太夫の弟権太夫の両名は、金毘羅大権現の経営に関して金光院を相手として訴えを起こした。


 幕府の寺社奉行はこれを受理し、その旨を高松藩に伝えた。高松藩は金光院に対して訴人と和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかった。幕府は双方の出府を求め決断所において審判を行った。封建制下の常として内記と権太夫は敗訴となり、寛文11年(1671)11月11日、その一族は高松藩によって祓川の刑場で処刑された。


 その後、金光院においては不幸が相次で起こりこれを内記等の怨霊のたたりとし、約200年後文久3年(1863)11月処刑地の権太原に慰霊碑を建立して供養した。金毘羅土産として売られていた白首(松太夫)と赤首(権太夫)の獄門人形の所縁の場所である。


(引用)https://honndokagawa2019.blog.fc2.com/blog-entry-953.html

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