その昔、最澄(伝教大師)が唐(中国)の遊学からの帰り道に、本吉山のふもとに立ち寄られました。
その時、山の中腹にひとすじの光明がさしているのをごらんになって、「これは不思議、ありがたい仏様のおしるしにちがいない」と信じ、光を求めて山中に向かいました。
生い茂る樹木にさえぎられて、光の方向もわからず途方にくれていた時、1羽の雉子(きじ)が最澄の頭上に舞い降りてきて、道案内しながら、光を放つところに導きました。
光を発してたのは1本の合歓木(ねむのき)で最澄は霊木(れいぼく)と悟り、この木の幹の根元で十一面四十手観音像を刻みあげ、清水寺に納められたのが観音様の由来とされています。
雉子はめでたい鳥とされ、親子の愛情が深い鳥として慈しみ尊ばれてきました。
唐から連れてきた竹本翁助(ちくほん・おうすけ)という人に命じて、道案内の雉子の姿を作らせたのが、現在では、「きじ車」または「雉子馬」と呼ばれ親しまれている郷土玩具であると語り伝えられています。
昔は、木材を集め、木地(きじ=木材を用途に応じて切り分けたもの)にして糸車(ろくろ)を操り食器やその他の生活用具を作って、それで商売をした人を「木地師(きじあい)」と呼びました。
明治の初めまでは、山の8合目までの樹木の伐採は自由でしたので、木地師たちは、全国の山を尾根伝いに渡り歩き、木を求め仕事をしながら生活を営んでいました。
子供が生れても両親は、昼間は樹木の伐採、運搬の仕事、雨の日、夜仕事には糸車で食器などを作る忙しい毎日でした。
子供は1人で遊ぶしかなく、いつも寂しい思いをしていました。父親は子供をかわいそうに思い、何かなぐさめるものはないかと考えました。
そうして考えついたのが、運搬に使っているそりに似たキンマ(ウマともいう)と呼ぶ道具を作って子供に与えることでした。それを作って与えたところが、子供たちはあまりさびしい思いもせず、1人で遊ぶことができるようになりました。
両親は、夜のうちに作った食器や道具類を近くの市(いち=品物の交換や売買をする場所、近くでは三池や南関の町など)に並べて商いをしていました。
その道具類の中にこの雉子ウマを一緒に並べて見たところ、珍しいと言って買われ、だんだん数多く売れるようになりました。
木地師たちは気をよくして色を塗ったところが、いっそう評判がよくなり、たくさん売れるようになりました。
色は樹皮(じゅひ)や植物の茎(くき)、葉などをしぼり、赤・青・黄色を作って、思い思いの色を塗っていましたが、いつしかその土地の色づけを一定してきたと思われます。
また、子供が喜び、遊びやすいようにウマに2つあるいは4つの車が付けられ、俵を背中に乗せたものなどいろいろなウマに変わり、雉子馬がきじ車へと呼び名まで変わっていきました。
雉子は昔から幸先(さいさき)のよい鳥、親子仲のよい利口な鳥として大事にされていたので、木地=雉子と呼び名が同じところから、雉子馬、雉子車と呼ぶようになったと思われます。
木地師達のうちで北に向かった人々は「こけし」を作り、南に行った人達は「きじ車」を作りました。それらは、各地で今に伝わる代表的玩具として、土産品として人々に親しまれています。