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今からおよそ1,200年ほど昔、今の東北地方は蝦夷といわれ、朝廷の命令にしたがわない豪族たちが、大きな力を振ふるっておさめていた。朝廷では、それまでにも何回か兵を出して征伐しようとしたが、いつも思い通りにはいかなかった。
 京の都に、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という強い武人がいた。田村麻呂は、朝廷の命令を受けて、征夷大将軍となって、蝦夷を征伐することになった。田村麻呂は、たくさんの家来を引き連れて出発する際、お寺のお坊さんがやってきて、「この箱の中には、私が心をこめて彫ったものが入っています。何かの役に立つこともあるでしょうから、どうぞお持ちになってください」と箱を渡された。
 

中には、鞍までつけた小さな木彫りの馬がちょうど百頭入っていた。田村麻呂は、木箱を大切に持って都を出発。

京の都から蝦夷までは遠い道のりで、田村麻呂の軍勢は、敵を打ちやぶりながら、今の三春町の近くまで進んできた。
 

そのころ、三春のはるか東、大滝根山の鬼穴を根城にして、大多鬼丸(おおたきまる)・高丸(たかまる)らの豪族たちが立ちはだかる。田村麻呂は、大多鬼丸らに降参するようによびかけたが、大多鬼丸は、降参するどころか戦いをしかけてきた。敵たちは岩かげから、雨のように矢を射ってきたり、暗やみの中でも攻め込み、田村麻呂の軍勢は苦戦を強いられた。

 田村麻呂があと一息というところまで追いつめたとき、味方の馬がバタバタと倒れ始め、田村麻呂の乗った馬も倒れてしまった。大多鬼丸は、これを見て田村麻呂の首を取ろうと一斉に攻め込んできたその時…
 

遠くから、波のように、たくさんの馬が走ってきた。

新しい鞍をつけた馬が、田村麻呂の前で止まる。なんとも不思議なことに、やってきた馬は百頭、味方の軍勢の百人と同じ数。田村麻呂が、先頭の馬に乗ると、あとの九十九人も、馬に飛び乗り、大多鬼丸の敵陣を攻め落としたのです。


 その後も不思議な事が起こった。
戦いに勝つことができたのは、百頭の馬のおかげだと、エサをたくさん用意し大切にした馬が、その夜、あっという間に消えてしまった。その知らせを聞いて驚いた田村麻呂は、京の都を立つときにもらった木彫りの馬のことを思い出し、急いで木箱のふたを開けてみた。百頭の木彫りの馬が、びっしょりと汗で濡れていた。

田村麻呂は「この馬が私を助けてくれたのか」と涙し、戦いに勝った印にと、木彫りの馬にお神酒をそなえて感謝し祀りました。
 

田村麻呂は、大滝根山の戦に勝った記念として、この木彫りの馬を村にのこし、大切にするよう言いつけて立ち去った。


 田村麻呂が去った後、村人たちが木箱のふたを開けてみると、なんと、その中の一頭が消えてしまっていた。

いくら数えても九十九頭しかのこっていなかった。村人たちは、言い合った。
「きっと、田村麻呂様を乗せた馬が、後をしたって、ついて行ったにちがいない。」
 残された木彫りの馬は、箱に入れられたまま長い間大切に村におかれた。


 その後、誰からともなく田村麻呂について行った一頭の馬をしのんで、木彫りの馬作りがはじめられました。
 三春駒(みはるごま)は、このように語り伝えられ今でも作り続けられているのです。
(引用)https://www.gimu.fks.ed.jp/plugin/databases/detail/2/18/287

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