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・牛鬼の歴史
日本外史によると「豊臣秀吉が加藤清正に朝鮮出兵を命じた文禄の役に武将加藤清正が韓国の晋州城を攻めるときに、亀甲車を造って城の上から射おろす矢や、投げつける石を防いだのが始まり」と言われている。亀甲車とは、堅板で箱の形を作り、それを牛革で包んで、牛の生首を棒に刺しその先に掲げ、中に兵士が入って攻め戦ったものと言い伝えられている。

文禄2年、それぞれの大将は、兵を合わせ、晋州城をとり囲んだ。清正(加藤清正)の兵士は城の周囲を埋めつくし、竹で作った楯をかざして応戦したが、城の上から射おろされる矢や、投げつけられる石は、雨が降り注ぐようであった。清正は、そこで、亀甲車というものを造り、その車に兵士を乗せて、城の下にせまり城の根元に穴を掘った。すると、城の高殿(こうでん)や、物見やぐらが崩れ落ちた。清正は、黒田長政とともに城に攻め入り、各大将もこれに続いた。


城の守将(しゅしょう)・徐禮元(じょれいげん)、金千鎰(きんせんいつ)の両将軍と激しく交戦し城を陥落した。

この武勇伝を、藤堂高虎が宇和島に伝えた。その後、天保11年頃に宮の下村または、成妙村の庄屋備忘録(庄屋文書)に牛鬼のことが触れられていた。(残念ながら、現在のところこの庄屋文書は残っていない。)この朝鮮出兵の際に使われた亀甲車の話が、宇和島やその周辺に、牛鬼というものが出来た起源であろうといわれている。

来村の保田に牛鬼の付属品を入れていた箱があり、この箱には弘化2年(1845)の年号が入っていた。明治になって、保田の牛鬼を宇和島の山際が譲り受け、それを新田町にもって来たといい伝えられている。

また、宇和島でも有名な丸穂村の牛鬼は、江戸時代末期頃から、お祭りで参勤交代の大名行列を模した奴踊りに「お槍ふり」をしていたが、明治末期頃から牛鬼が登場し、今日まで受け継がれている。
(引用)https://www.uwajima.org/event/index2.html

​宇和島の牛鬼伝説

牛鬼(うしおに)とは、古くは「名おそろしきもの」として枕草子にも登場した、頭が牛、体が鬼という残忍で恐ろしい妖怪です。


牛鬼の伝承は西日本を中心に各地に残されていますが、宇和島の牛鬼伝説は特に有名です。かつて家畜を襲っていた牛鬼を山伏が退治し、バラバラにされた牛鬼から七日七晩出血し、その血は近隣の高知・徳島・香川にまで流れ出し、それが溜まって淵になったという伝説も残っており「牛鬼淵」という名前が今も地名として残っています。
そんな恐ろしい牛鬼をなぜ祀っているのか。恐ろしいもの、災厄を封印と鎮魂の意味を込めて神聖化したもの。いわゆる祟りを鎮めるという事ですね。牛鬼を他の災厄を払うものとして、守り神として祀ったのです。

宇和島牛鬼祭りは「牛鬼」が街を練り歩く勇猛なお祭りです。牛鬼の全長は5、6メートルほど。大きく、迫力があります。牛鬼は子どもたちが吹き鳴らす、ほら貝のような音のする竹製の笛「ブーヤレ」の音とともに街中を練り歩き、長い首を各家に突っ込んで厄払いをします。
(引用)https://www.oricon.co.jp/article/241491/#:~:text=%E7%89%9B%E9%AC%BC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AF,%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%AE%8B%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

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